最近思うこととお知らせ

石原慎太郎氏を悼む    (岩下栄一)

私と石原慎太郎氏との出会いは、銀座の石原事務所であった。

人気の若手作家の元には、多くの人々が詰めかけたが、早大雄弁会の学生弁士であった私は、ボランティア活動の遊説秘書に応募、当時、早大雄弁会の先輩であった深谷隆司氏(のちの自治大臣)のコネで採用となった。都市部の票を狙っていた石原氏は東海道沿線に重きを置き沿線の諸都市を重点的に廻り、商店街や駅前で街頭演説を繰りひろげた。

石原氏は、見た目通り神経質で、常に瞬きを繰り返し言葉使い、語彙の活用、言葉のセンスを重要視した。裕次郎氏がよく応援に加わったが、この時が一番大変だった。群衆が殺到し宣伝カーが発信できなかったし我々も身動き出来なかった。私が特に注意を受けたのは、アクセントだった。「明日の日本の新しい国作り」というフレーズは「あ」ではなく「す」にアクセントがあると言われた。

傲慢で不遜な人柄に、純粋な学生だった我々には就いていけないところもあった。しかし、一面素朴で温かい面もあり、時おり私たちを慰労し、キャバレー等に連れ出したりした。「巷の神々」を新聞に掲載したり出版した人だけに意外と信心深く神社仏閣を通るときは、必ず丁寧に参拝した。結果、東海道を3往復した。ほとんどの駅、商店街で街頭演説をし、この選挙戦は終わった。その結果石原氏は、300万票獲得しトップ当選を果たし、颯爽と政界にデビューした。300万票超えたら温泉に招待するという約束は実現しなかった。その後、考え方の相違もあり、私から離れていったが、その後の人生には大きな影響があったような気がする。往時をしのびながら今はただただ石原氏の冥福を祈るばかりである。

関連記事

ピックアップ記事

  1. 大隈重信の生涯幕末から昭和までを駆け抜けた大衆政治家大隈重信の伝記的小説。
  2. 私と石原慎太郎氏との出会いは、銀座の石原事務所であった。
  3. 蒲島知事は9月定例県議会において、県の方向性を表明。
  4. あらためて読む「大地の子」 山崎豊子の平成3年の作。中国残留孤児の壮絶な半生。
  5. 日本実業界の父が、生涯を通じて貫いた経営哲学とはなにか。